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嵐の中の神

その日は早朝から風が強く、小石が降ってでもいるかのような大きな雨音が屋根から聞こえていました。窓の外をみると、黄みがかった灰色の空の下で木々が強風に揺さぶられています。時折、稲妻が空をパッと照らし、骨まで響くような雷鳴がとどろきます。家の電気が消えたりついたりして、この悪天候はいつまで続くのだろうと不安でした。

危険な挑戦

何百万の人たちがテレビ中継を見つめる中で、ニック・ワレンダは直径わずか12センチのワイヤー上を約550メートルも歩いてナイアガラの滝を横断しました。彼は出来る限りの準備をしました。しかし、滝の高さと激流の他にも、視界をさえぎる霧、バランスをおびやかす強風、足元を滑りやすくする水しぶきという悪条件が、彼を大きな危険にさらします。これらの真っただ中で、(そして恐らく、これらの危険があったからこそ)、彼は何度も祈り、神を賛美したそうです。

すべてを越えて

姪と私は、家族内にあった数年来の悩みについて、こんなやり取りを続けていました。

苦難のときにも動じない

父親の自慢をする子どもがいます。近所の子どもたちの会話に耳を傾けてみると、「〇〇くんのパパより、ぼくのパパの方が大きい!」とか、「〇〇ちゃんのパパより、あたしのパパの方がえらい!」とか言い合っています。そんな中でも一番の自慢は、「ぼくのパパのほうが、〇〇くんのパパより強い!」です。これは大抵の場合、けんかに負けそうな子が相手に対して発する警告です。いいかげんにしないと、ぼくの父さんがやって来てぎゃふんと言わせるぞ、そのときは君の父親も一緒だからな、というわけです。

有益な力

ボクシングやストロングマン・コンテストには、共通の一面があります。どちらも、対戦相手より自分の力が勝っていることを見せる個人競技です。つまり、腕相撲と同じです。そこで一番強いのは誰かを競うのです。

確率を超えて生きる

誰もがある程度、確率を意識しながら暮らしています。たとえば降水確率が20%の場合、傘を持って出かけることは少ないと思いますが、90%なら確実に持って行きます。確立が高いほど、私たちはそれをあてにします。それが賢い選択だと思っているからです。

綱引き

近所の書店が模様替えをしたというので足を運んでみると、宗教書コーナーには、占いやオカルトなどの本が増えていました。この書棚を見ていると、まるで光と闇が綱引きをしているようです。通路に面して片側にキリスト教関連の本が、反対側にオカルト関連の本が並んでいて、その数はほぼ同じです。

神の力強い御腕

友人のジョアンの夢は、ピアニストになってソロの演奏家か伴奏者として各地を回ることでした。しかし、大学でピアノを学んでいたとき、右腕に腱鞘炎を患って、演奏家に必要な強い腕力を失ってしまいました。それで結局、音楽史と文学の学位を取って大学を卒業しました。

ジョアンはクリスチャンでしたが、ここ数年間は神に背を向けて、自分勝手な道を歩んでいました。大学を卒業後、さらに困難な状況に見舞われると、彼女は、神が自分を呼び戻そうとなさっていると感じました。そして、主のみもとに戻ったのです。

結局、彼女の腕は癒されて強くなり、演奏家として旅をするという夢は実現しました。彼女は、「私は今、自分のためにではなく神の栄光のために演奏しています。神が手を差し伸べてくださったおかげで、私の霊性と腕力が回復されました。ですから、神から賜った才能を用いて神に仕えることができるのです」と語っています。

神は「伸ばした腕」(出6:6)によって、イスラエル人をエジプトの苦役から救うと、モーセに約束されました。反抗を繰り返すイスラエル人がこの約束を疑ったにもかかわらず、ご自分の約束を守られました(14:30-31)。神の力強い御腕は、私たちに向かっても差し出されています。私たちの状況がどう展開しようと、神は信頼できるお方です。神の子どもたちのために、みこころを成されます。私たちは神の力強い御腕を頼りにすることができます。

あなたを呼んでおられる

手荷物検査を終えて、搭乗ゲートに向かって歩いていたときでした。名前が呼ばれるのを聞いたのです。「お客さまのお呼び出しをいたします。アン・セタス様、アン・セタス様。」セタスはよくある苗字ではないので、私のことだと思いました。航空会社の人に言われたとおり、赤い電話の受話器を取り、名前を告げ、なぜ呼び出されたのか尋ねました。しかしオペレーターは「あなたを呼び出してはいません」と言います。私は、「あれは確かに私の名前でした」と言いましたが、彼は「呼び出していない」の一点張りです。なぜ、私の名が呼び出されたのか、結局分からずじまいでした。

はるか昔、サムエルという名の少年は、自分の名前が呼ばれているのを聞きました(Ⅰサム3:4)。聖書によると、「サムエルはまだ、主を知らず、主のことばもまだ、彼に示されてい」ませんでした(7節)。そこで、神殿の祭司エリは、サムエルを助けなければなりませんでした。サムエルは、誰が呼んでおられるのかを理解しなくてはならなかったからです。そういうことがあって、神はサムエルの人生に対するご計画を明らかにされました。

神は私たちの人生にもご計画をお持ちで、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタ11:28)と、私たちの心に語りかけておられます。これが、神の呼びかけです。主の救い、安息、そして平安を受け取りなさいと、呼びかけておられます。

救い主は、私のもとに来なさいと、私たちを呼んでおられます。